冨永流浪速神楽

神楽について

 お神楽の種類には、大きく分け宮中で行われる「御神楽」と、民間で行われる「里神楽」があります。「宮中神楽」の成立は平安時代の貞観年間(859-877)と云われ、「里神楽」は殆んどが江戸時代中頃の成立と見られております。
 「里神楽」には、「伊勢神楽」「出雲神楽」九州の「高千穂神楽」関東の「江戸神楽東北出羽三山の「山伏神楽」など各地に種々の神楽が伝わり、京阪神の神社には巫女神楽として「浪速神楽」が伝承されております。

浪速神楽の沿革

 「浪速神楽」の起源は、諸説あります。

 まず西角井正慶著『神楽研究』によれば(系統編其二)に『京阪の神社には巫女の湯立舞が盛んである。恐らく稲荷が栄えたものと思はれる。』とあり、京都の伏見稲荷説を採っております。
 伏見稲荷神社には、「御神楽」「御所神楽」が伝わり、「御所神楽(里神楽の一種)」は明治維新以前においては、社家(しゃけ)の一なる松本家が代々世襲し、毎年正月十五日に御所へ参内奉奏し、その都度千早(ちはや)を拝領したと伝えます。「御所神楽」の式目は25座あり、その内16座ぐらいは「浪速神楽」とも共通していますが、神楽歌は稲荷独自のものが伝わっております(以上【神楽研究】より)。但し、「御所神楽」は現在伏見稲荷大社には伝わっておりません。

 次に枚方在住の神楽方、笠井氏によれば、同家は室町時代から続き、京都吉田家の神楽を伝え、吉田家より神楽の裁許状と共に拝領した天冠(てんかん)と緋袴(ひばかま)が伝来しております。但し、吉田神社には現在神楽の資料は伝来しておりません。また、笠井家も一時神楽が途絶え、昭和7年に大阪の阿倍王子神社で成田家伝来の「太々神楽(だいだいかぐら)」27座の教授を受けております。

 次に大阪市天王寺区鎮座の久保神社の社家の守山家は、江戸時代以来の神楽の家で、成田家(長谷川家)とも親戚関係になりますが、守山重郎師に師事した川口常三郎楽師によれば、むかし京都に東西の吉田御殿があり、守山氏の祖先は西の吉田御殿の道統を継ぐと伝聞されています。ちなみに大阪市阿倍野区鎮座阿倍王子神社の神職長谷川家には、天保7年(1836年)正月15日新調、成田健治持の神楽絵巻一巻と天保7年梅天(6月)中八日守山姓八重野作成成田健治持の神楽歌折本、および神楽口伝(袋綴本)が伝わっております。

 この吉田家説に関して、大正15年6月13日付の『ラジオ新聞』によれば、百数十年前、難波津に吉田家と守山家があり、吉田家が神楽125座を編み出したのが「浪速神楽」の始まりで、吉田家は絶えて現在では守山家がその後を継いで家元となっているとあります。但し、守山家は戦災にあって神楽の資料は伝わっておりません。
 このラジオで放送された内容を記録しており、同師の弟子、井上勝太郎氏がこの記事を保存されております。
 この神楽125座に関して、大阪市天王寺区鎮座生國玉神社に、同社末社城方向(北向き)八幡宮に関する古文書があり、この文章中に神楽120座の式目が詳細に列挙されております。原本は水損にあいボロボロの状態ですが、補修されて幸い120座の内、118座まで読み取ることができます。この120座の内には、現存の約30座の神楽も含まれております。

 次に、現在大阪で最も普及しているのは、故冨永正千代楽師を家元とする流派です。冨永師に師事した桑垣英雄楽師によれば、舞は明治時代の神楽方西村小松師に師事した母親より受け継ぎ、楽が古来の曲を独自に編曲されて、神楽の曲を音楽的にも最も完成させたのが冨永正千代師であると云います。

 一方、現在神戸方面には、同じ「浪速神楽」であるが、曲も舞も大阪とは少し異なる神楽が行われております。これに関し、神戸方森崎聞多氏によれば、神戸の神楽は淡路島より伝わり、淡路島へは泉州から伝来したとも伝聞されております。しかし『兵庫県民俗芸能誌』(喜多慶二著)第九章第一節神楽によれば、淡路島の神楽は、洲本市馬場町鎮座洲本神社の酒井義一宮司の祖母が、若いころ奈良の春日大社の巫子で在職中「巫女神楽」を習得し、帰国後洲本で神楽舞の教習所を設け、淡路島は元より対岸の明石、高砂あたりからも習いに来たと云われております。ちなみに春日大社には古来より伝わる巫女舞があり、平凡社刊『日本古典芸能誌一神楽』によれば、元和2年(1616年)御巫富田槇子著の『歌譜』にもとづいて、明治5年の若宮祭に、富田光美師によって改修奉奏された神楽が伝来しております。

冨永流浪速神楽式目

 佐備神社では「冨永流浪速神楽」を継承しており、現在約30座伝わっております。この式目の順位は神楽方の家によって多少違いがあり、名称も異なる場合があります。ここでは便宜上昭和57年習得の大阪府神社庁作成のビデオテープ『浪速神楽』の順位で述べることにします。
 ちなみにビデオテープ『浪速神楽』の制作に関しては、昭和56年大阪府神社庁の肝いりで『大阪府伶人楽師の会』が結成され「浪速神楽」の保存策が検討された流れで昭和57年に収録が行われました。「浪速神楽」は現在では神社の祭礼でも数座舞われる程度で、普段舞うことが少ないため、つい忘れられがちで、昭和の初期まで行われていたお神楽も現在曲や舞が不明なものすらあります。そこで今回、冨永正千代師の直弟子である太平千代子師が神楽舞を復元指導され、式目順位は冨永正千代師がとなえられた『浪速神楽式目数え歌』にもとづき(一部都合により差し替えています)収録されました。

1.磐戸舞(いわとまい)2.庭ノ舞(一名式神楽)3.榊舞(さかきまい)
4.四方拝5.和幣(にぎて)6.早神楽(はやかぐら)
7.杼鍬(ひくわ)8.花ノ舞9.胡蝶吾妻舞(こちょうあづままい)
10.稲積(いねつみ)11.鉾ノ舞(ほこのまい)12.相舞(あいまい)
13.玉太刀(たまたち)14.八雲(やくも)15.八平手(やひらで)
16.扇四方拝17.大山ノ幸18.花湯
19.神酒調進(みきちょうしん)20.剣ノ舞(つるぎのまい)21.浪速津(なにわづ)
22.大海ノ幸(だいかいのさち)23.菖蒲刈(あやめかり)24.神鏡(しんきょう)
25.大里(おおざと)26.鉾剣ノ舞(ほこつるぎのまい)27.湯立(ゆだて)
28.鈴扇(すずおうぎ)
        ※以上『浪速神楽』収録28座

 また上記28座以外にも『山巡(やまめぐり)』『仙行楽(せんぎょうらく)』『萬歳(まんざい)』『朝桜(あささくら)』『日綱(ひつな)』等の神楽があり、この5座は現在、笠井家に伝わっております。

 これらの神楽をまとめて「太々神楽」と呼び、戦前は一日かけて奉納することが良く行われておりました。
 しかし、現在の神社の祭礼で通常行われるのは、月次祭や大祭に行う湯立舞、御祈祷の際に神前で舞われる式神楽や剣ノ舞、鉾ノ舞など4.5座位で、それも前後省略して約3分位で舞われているのが普通です。
 現在、佐備神社ではこの伝統を受け継ぎ、毎年4月に「神楽祭」を行っております。

衣装と採り物

 「浪速神楽」は江戸時代に始まりますが、当時の神楽を知る一つの資料は大阪市阿倍野区鎮座阿倍王子神社に伝わる『浪速神楽の絵巻』ですが、これは幕末の天保7年にそれより以前の神楽を記録するために作られたとみられ、現在に伝わらない神楽が多数描かれております。ただ残念なことに説明が一切ないため舞いの名称が不明の神楽も多くあります。
 また現在の「浪速神楽」は全て巫子だけで舞われておりますが、江戸時代には神主も舞っており、これを『かん禰宜(ねぎ)』と称し、浄衣(じょうえ)や狩衣(かりぎぬ)を着て舞っております。
 巫女の衣装は現在と同じですが、白衣に緋の袴をはき、平絹の舞衣(まいぎぬ)をつけ、その上に金襴(きんらん)の千早と呼ぶ衣裳をきております。金襴の千早には赤や青や緑などいろいろな色があり、絵巻物では同列に並んで描かれているようですが、実際にはこの千早の色にも位の別があったと思われます。享保5年(1720年)神衹官僚部朝臣(吉田家)より出された文書に『河内国河内郡神並村牛頭天王之巫子伊豫、恒例之神事神楽等勤仕之時可着赤色千早舞衣物、神道裁許之状如件』とあり、赤色の千早を着ることが許されております。
 「出雲神楽」「江戸神楽」では面が良く使われますが「浪速神楽」では使っておりません。何の舞でも衣装はそのままで特別な衣装を用いないのも「浪速神楽」の特徴です。

 次に、神楽には採り物と呼ばれる道具類が使われます。「浪速神楽」でも舞によって種々の採り物が用いられます。

檜扇(ひおうぎ)金銀の舞扇神楽鈴剣(つるぎ)両刃の直刀
鉾(ほこ)弓矢鎌(かま)釣り竿と鯛御幣(ごへい)
榊(さかき)菖蒲の花四季の花鳥籠(とりかご)
長柄銚子提子(ひさげ)三宝雲脚台神鏡
        ※以上「浪速神楽」でよく使う採り物(一例)

 例えば、庭ノ舞(式神楽)では神楽鈴、大海ノ幸では釣竿と鯛、菖蒲刈では菖蒲の花と鎌が用いられます。花は生花ではなく造花が用いられますが、花や釣竿、鳥籠および金銀の舞扇以外はたいてい何処の神社にもある祭具を使って舞えるのも「浪速神楽」の特徴です。

(注)巫子衣裳の内、平絹舞衣を俗に千早と称しておりますが、本来は金襴の千早が正しく、舞衣は千早とは称しません。
(注)『河内国河内郡神並村牛頭天王』とは、大阪府鎮座石切剣箭神社のこと

神楽歌と神楽譜および楽器

 神楽歌は「宮中神楽」と同様に古今集や拾遺集等から信仰に関する古歌が採用され、各舞毎に各々の神楽歌が決められ用いられております。この神楽歌も神楽方の家によって様々の歌が伝わっています。
 「浪速神楽」の場合の神楽歌は、原則として伶人長が舞の前に朗詠し、その後2拍手を合図にして舞と奏楽が行われます。但し、中の歌と称して舞の途中の区切り目で朗詠されることもあります。これは特別な舞に限られており、鉾ノ舞、相舞、八雲、剣ノ舞の4座のみに中の歌があります。又、舞の終わりにも2拍手が打たれます。

 神楽歌の古い物は、やはり阿倍王子神社に伝わる天保7年梅天(水無月)中8日守山姓八重野作成田健治持の折本と、別に『神楽口伝』として成田健治持の袋綴本があります。内容は共に同じで袋綴本は折本の写しと考えられます。歌は全部で26首あり、式目名で見ると現在伝わる「太々神楽」と同じです。ところ同じ天保7年の神楽絵巻には、現在伝わらない神楽が多くあり、神楽絵巻は天保以前の古い神楽を記録するために作成されたと推定されます。

 次に神楽譜ですが、神楽の譜面は雅楽の譜面と同様、龍笛の『六中タ丄五テシ』という独自の音譜で表され、所々太鼓や手拍子の入る所に『○』印が付されており、長くのばす所には『引ー』と書かれております。この譜面には唱歌と呼ぶ歌が添えられており、50音のタ行ハ行およびラ行からなる唱歌で、この歌により曲の調子を覚えて演奏の練習をする訳です。例えば「式神楽」の譜面は『タア引引 トールロ タアラリーン イーへ―ホーヲ』で始まります。
 雅楽の場合の音程や速度は厳格に決められていますが、神楽の場合は多少融通がつけられ、急ぐ場合には少し早めに演奏することができます。また、守山家や長谷川家に伝わっていた古い譜面では、割と単調なリズムで素朴な感じの音色ですが、冨永正千代師は独自の音感により、譜面に半音上げや下げのアクセントを加え、これによって神楽の曲を音楽的に発展させました。したがって古い譜面を用いる家と冨永流の譜面の家とでは、同じ神楽でも多少演奏に違いが出てくる訳です。もっと詳しくいえば、神楽方の家により多少譜面に違いがあった訳です。
 昭和初期に既にこれが問題となり、先述の橋本光造師が神楽譜の統一を期して標準的な神楽譜面が作られ、昭和7年に出版されましたが、結局普及せずに終わりました。尚、橋本師作の神楽譜の原本は弟子の井上勝太郎師が所持され、複製本も出されております。

 次に「浪速神楽」に用いる楽器類としては楽太鼓、手拍子、龍笛、笏拍子の4種類があります。楽太鼓は神社でみる丸い枠に吊り下げた釣太鼓で少し鈍い感じの太い響きがでる太鼓です。また手拍子は洋楽器のシンバルを小型にしたような真鍮製で俗にチャンポンとも呼びます。龍笛は雅楽に使う横笛で、「浪速神楽」の場合は他の「里神楽」に見られるような篠笛や神楽譜は用いず、笛は龍笛だけを用います。笏拍子は厚めの笏を縦に2つ割りにした割笏で拍子を取るのに用います。

※出典:大阪府神社庁『浪速神楽』について

佐備神社|浪速神楽の伝承と指導